HOME > 八坂神社について


 鎮座1200年、守谷の歴史を見守る八坂神社


ご祭神 素戔嗚尊(すさのをのみこと)別名牛頭天王(ごずてんのう)

 八坂神社は約1200年前の大同元年(806年)9月27日守谷市本宿天の窪と呼ばれる地(現在の高野地区本宿)に、神主吉信により守谷郷の守護所として牛頭天王宮をお祀りしたのが始まりとされています。現在の本町に遷座されてから約400年経過して現在に至っています。お祀りされている素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を牛頭天王(ゴズテンノウ)とも呼んでいることから、古老たちは天王様と呼び守谷近隣の人々より信仰を集めています。

【神社名】 八坂神社(牛頭天王宮)
【御祭神】 素戔嗚尊(牛頭天王)
【鎮座地】 茨城県守谷市本町629番地
【例大祭】 祇園祭(7月最終土曜日)
【御利益】 厄除け、病除け、その他

 八坂神社は、守谷の郷を見守るように町の中心部に鎮座しています。守谷小学校の校歌や守谷小唄で歌われるように、常に守谷の氏子・崇敬者の心のよりどころとして崇敬されてきました。 1200年という悠久の歴史のまにまに、現在も守谷市の守り神として篤い信仰を集めています。


由緒・歴史

 神社所有の神鏡に「下総国守谷郷牛頭天王守護所、大同元年丙歳九月二十七日、神主吉信」とあります。慶長3年に守谷城主土岐山城守によって現在の神域に社殿を遷宮したと伝えられています。その後に伊丹播磨守が修営しています。その後、寛文2年に火災により焼失し、寛文3年堀田備中守により再建されましたが寛文5年に再び火災により焼失してしまいました。寛文11年城主酒井河内守によって再建、元禄5年関宿城牧野備後守により大修営され、その後幾度かの改修をはかり現在に至っております。
 右の写真は大正13年に斎行された上棟祭の模様です。


ご神徳・信仰 蘇民将来子孫也

 八坂神社に祀られている御祭神の素戔鳴尊の逸話にこのようなお話があります。素戔鳴尊が高天原から南海地方に降りられた時、道中日が暮れて宿を請うことになりました。途中に蘇民将来と巨旦将来の兄弟の家があり、巨旦は富者であったが宿を断り、蘇民は貧者であったが喜んで宿を提供しました。そして歳月がたち、再びその地を訪れた素戔鳴尊は蘇民将来にそのことを感謝し、『後世、疫病が発生した時、あなたの子孫たちは《蘇民将来の子孫である》といって茅(かや)で作った小さな輪を腰に付けなさい。きっとそれから逃れ得ることでしょう』と伝えています。 いつしか巨旦将来の子孫は絶え、蘇民将来の子孫はいつまでも栄えているといいます。
 この『蘇民将来子孫也』は、ふりかかる災厄から素戔鳴尊にお護り頂く言葉として現在に伝わっています。 そのような素戔鳴尊の逸話に習い、厄除け、病気除けの願いを込めて祇園祭は行われるのです。


神話 八岐大蛇退治

 素戔嗚尊が生れ坐したのは、イザナギ・イザナミニ柱の神が国生みの果てに火の神カグツチを生んで、黄泉国(死後の世界)に隠れられたイザナミの神を追っていかれたイザナギの神が、ケガレをすすぐために筑紫の海でミソギハライ(禊祓)をせられたとき、次々に神さまがお生まれになりましたが、最後に清浄の極に至ってお生まれになった神さまが、天照大神(アマテラスオオミカミ)・月読命(ツキヨミのミコト)と、そして素戔嗚尊でした。
 素戔嗚尊の伝説は神話の世界、古事記の物語の中に登場します。その中であまりにも有名なお話は、今の島根県出雲地方に伝わる八岐大蛇(ヤマタノオロチ=様々な厄災)退治のお話です。八つの頭を持ち、人をも飲み込んでしまう大蛇を退治しこの地方の人々の難儀を救った事から、我が国の人々に尊ばれ難儀を救う守り神として全国的に祀られるようになり、この守谷でも人々の疫病、諸難除けの守り神として祀られるようになりました。
 また、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)と縁を結ばれ、出雲大社の御祭神大国主命(オオクニヌシノミコト)を誕生させた事から縁結びの神としてお祀りされています。尊は櫛稲田姫命と結婚されて宮作りをする時、須賀の地において『八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 八重垣作る その八重垣を 』という和歌をお詠みになりました。この歌は、わが国の和歌のはじめとされています。そして素戔嗚尊と櫛稲田姫命二人の神は、協力して新しい国作りに励まれました。


神紋 五瓜に唐花紋 三つ巴紋

 神紋とは、神社で用いられる固有の紋となります。その神紋には、神社にゆかりのある植物や縁起物、または、公家や武家の家紋が用いられることがあります。八坂神社の神紋は五瓜に唐花紋と三つ巴紋です。 五瓜に唐花紋はキュウリの断面に似ていることから、祇園祭の期間中はキュウリを食べないというような信仰があります。


神木 樹齢400年のケヤキ

 八坂神社のご神木は欅(けやき)の木です。樹齢は400年前後ではないかと言われています。多くの方がお参りをした際に御利益をいただこうと御神木に触れて帰って行かれます。八坂神社の御神木ですがよく見ると、一度分かれた枝がふただび合わさっています。これは不思議なことだと参拝者は縁を結んでくれるとか、夫婦和合の御利益がありますねとおっしゃります。皆様も参拝の際にはどの枝か探してみてください。


例大祭 祇園祭(ぎおんまつり)

 八坂神社の例大祭は祇園祭です。病気を祓う祭りとして7月最終土曜日に斎行され50000人を超える参拝者でにぎわいます。守谷の祇園祭は別名幟祭とも呼ばれ、他の神社で例を見ない数多くの幟が立てられます。幟は大神を天から呼び寄せる依代として立てるものといわれています。
 八坂神社の宮神輿は約500kgといわれ、各町内の氏子から選ばれた代表24人が交代なしで守谷市街地を担いで回ります。10km程の行程を6時間かけて巡り、各町内の御旅所を巡幸し氏子崇敬者の参拝をうけます。
詳しくは祇園祭のページへ


文化財 素戔嗚尊八岐大蛇退治図

 八坂神社所有の絵馬は慶応2年(1866年)2月、当時守谷町の斉藤徳左衛門、同藤兵衛、平尾丈助、布川村(現利根町)の伊勢屋平八、江戸八丁掘(現東京都中央区)の和田屋三右衛門らが奉納したものです。筆者は、狩野派の画家狩野友信で、その図柄は八坂神社の祭神「素戔嗚尊」が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治するという神話に基づく雄壮な場面です。狩野友信は明治以後洋画に志し、明治12年(1879年)から開成学校及び東京大学予備門で絵画を教授し、後に東京美術学校(現東京芸術大学)の教授となりました。


力石(ちからいし)

 八坂神社には力石というものが奉納されています。表参道から鳥居をくぐり左側の場所にお祀りされています。力石は古くより守谷の若者達がこの石を担いで力を競ったと言われています。重さは約二十八貫目(百五キロ)あります。この力石に触れると『無病息災』『子安成長』『立身出世』のご利益があるとされています。みなさんも参拝の際にお参りし触れてみてはいかがですか?


守谷小学校校歌 守谷小唄 守谷ふるさとかるた

 神社の近くの守谷小学校の校歌です。八坂神社の銀杏は小学校の校歌に歌われるくらいに地域の人々にとっては身近な存在です。秋になると見事な紅葉をみせてくれます。樹齢数百年の銀杏の紅葉は守谷の名物にもなっています。そのほかにも様々な場面で八坂神社が登場します。

◆守谷小学校校歌
八坂の銀杏 仰ぎつつ 薬師の丘を 望みつつ
登校の道は 異なるも 古城の門の跡を経て
集うは同じ 守谷校

◆守谷小唄
守谷鎮守の 八坂の森に きょうもしぐれるョ
今日もしぐれる 蝉の声 ササ 蝉の声

◆守谷ふるさとかるた
絵馬を見よ八坂の宝狩野の絵
夏祭り八坂神社の大幟
 ページの一番上に戻る